
単に足がきれいに上がることなのか、ターンを何十回もぶれずに出来ることなのか、奇妙な動きなのか、トリッキーな動きなのか、豪華な衣装なのか、驚くような舞台装置や照明なのか、思い込みの中なのか。
それとも、作品説明やライナーノーツが語る幻想を当てはめることなのか。
しかし、その何れにしてもその「舞台」にあるのは、それでしかない。
「舞台」に何を観たいのか。
それは、日常的な怠惰な身体ではない。どこにでもある身体ではない。
非日常を観たいのだ。
昨日の話や明日の話で日常を消化する意識を観たいのではない。
幼い意識で作り出された、稚拙な世界を観たいのではない。
子供のように、仲間内にしか指示されないものを観たいのではない。
私小説のような舞台を観たいのではない。
「舞台」に感動したいのだ。
「舞台」に喜びを観たいのだ。
弾けるエネルギーを観たいのだ。
溢れ出る情熱を観たいのだ。
本当の身体を観たいのだ。
そして、そこに「魂」を観たいのだ。
今回の作品は3本立てである。そこにある共通性は「関係性」である。
意識という不可解な代物がより複雑にする日常。
無意識の関係性。意識構造の中にある関係性。
そして、ダンサー同士の関係性。舞台と観客との関係性である。
しかし、それは難解なものではない。身体そのものがそれを表現する。
それぞれの情熱と溢れるエネルギーだけでそれを表現する。
人は本当の身体をその時目にするだろう。
誰が観ても「面白い!」を観せてやろう!!
日野晃
日野晃ほどダンスとしっかり向き合った武道家はいない。
日野がそれを求めたというより、ダンスが求めたのだ。
ダンスにはコンタクト・インプロビゼーション(CI)というジャンルがあり、一般的には「他者の身体、または物質と触れることから、即興的にダンスが続いていく」ものとされる。
しかし、世にあるCIはコンタクトでもなければ、インプロでもない、と日野は言う。
おざなりに触れ合い、勝手に動く、そんなものを観客に見せてどうするのだ、と。
真の武道では「相手に殺されないために」繊細に触れて反応を感じ、その流れに乗って動かなければならない。
そこから観ればCIはつきつめて考え、動いてはいない。
それを日野は変えようとしている。
武道家とダンサーが一緒になって創ろうとしている。
では、武道の視点で創造されるダンスは殺伐としたものなのか? いや、その真逆だ。
他者の殺意の可能性を知り、そのむなしさを身体で解らせる時、相互に圧倒的な「生」が立ちのぼる。
ぼんやりとした存在感などではく、強烈な輪郭が観る者に刻まれる。
押切伸一(ライター)